国際協力では当事者になれない?
ケニアに再赴任して1週間。
毎日が充実していて濃い一週間だった。
今回は「国際協力では当事者になれない?」というテーマでブログを書こうと思う。
あらかじめご承知おきたいことがある。
今回のブログでは答えがない。
結局何が言いたいんだよと思われるかもしれないが、
現時点で自分自身の中に答えがないので、もやもやとしたままの考えを記しておこうと思う。
もし何かヒントになるようなお考えをお持ちの方がいたら是非是非教えていただきたいです。
大学時代にネパールにボランティアで赴いてから途上国の教育改善に携わると決心して、大学院に進学。その後ミャンマーのNGOで2年弱教育事業に携わった後、ケニアのマサイ族が多く住む地域で教育事業(住民参加型学校運営)を実施しているNGOに転職した。
端的に今のもやもやを書くと
今まで国際協力に携わる自分は
「触媒」として途上国の人たちが自立するのを助けるのが役割であると思ってきたが、
そのポジショニング自体に若干違和感を持ち始めたということだ。
自助努力、自立、住民参加、、、
期間が決まっている途上国での開発プロジェクト。
プロジェクトが終わった後に現地の人たちが自分たちの手で地域を良くしていく。
外部依存から脱却し、自立する。
そういう形に持っていこうとするのは至極当然のことである。
外部資金には限りがある。
外部者である私は、いずれは出て行く。
そのため私にできることは種を蒔くことだったり、種が育っていく環境を整えること。
テクニカルな言葉を使えば
住民やスタッフをempowerし彼(女)らのcapacity buildingに貢献すること。
その後、現地の人たちの手で種を育てていく。
学校に行って校長先生や住民と話すのは現地スタッフ。
私は現地語が流暢ではないし、彼らの方が現地の文化や習慣を理解している。
コミュニケーションもスムーズだ。
私は現在、ケニア人スタッフが苦手な学校の教育データの分析を任されているので、
外部者としてやれることはまだまだある。
しかしこの教育データの分析もゆくゆくはケニア人のスタッフに任せていく予定である。
プロジェクトに携わっている身なので、現地スタッフと一緒に個々の学校が抱えている教育課題に思いを馳せ、一緒に解決策を考える主体ではある。
ただスタンスとしては、「半主体」であろうか。
同じチームとしてケニアのマサイ族の地域の教育改善に取り組んではいるものの、
少し引いたところに自分はいる。
最終的には自分は出て行く身であり、あまりにでしゃばりすぎて自分が仕切ってしまうとプロジェクトが終わった後、ケニア人たちが自分たちで仕切っていくことを邪魔することになってしまう。
以前までは上のような「触媒」としての自分の立場に満足していた。
しかし今その立場について改めて考えてみると
なんとなく、寂しいなと感じる。
教育改善のために貢献したいと思っている自分が、改革の主体となってフルコミットできていない。
学校に行っても蚊帳の外まではいかないまでも、議論の中心から自分は少し離れている。
自分はたばこを吸わないが、イメージとしては下のような感じだろうか。
少し離れたところでたばこをくゆらせ、良くなっていく状況を喜んでいる人たちを見て微笑している自分。
一方でその輪に入れずなんとなく疎外感を味わっている。
もう自分の出番がないなと思うと、たばこの火を消して喜びの輪から離れていく。
なんとなくその背中が寂しそうだ。
- 国際協力では完全には当事者にはなれないのではないか?
- 自分自身が改革の”Player”として活躍するべきなのではないか?
- そういう場所は国際協力にはあるんだろうか?
と考えるようになってきた。
これまでずっと途上国の教育のために貢献したいと思って大学、大学院と進み、キャリアを積み上げてきたけれど、
- 自分が活躍できるのは、「日本」なんだろうか。
- 「日本」に行ったら改革の主体になれるんだろうか。
とまで考えるまでになった。
日本で生まれ、日本の文化を理解し日本語を母語とする自分が比較優位性をもっているフィールドはケニアでもミャンマーでもネパールでもなく日本であることは間違いない。
一方で
国際教育協力の道で突っ走ってきた自分が大きくキャリアチェンジし、いきなり日本に行ったところで自分にやれることも限られている。
国際教育協力の道を進んでいても自分の中で納得できるスタンスを見つけることも可能なのかもしれない。
そもそも私自身の強みってなんだ?
- ケニアの教育のために「今」自分ができることは何か、
- 自分の得意分野や専門性は何か、
- 将来自分はどこでどういう立場から教育に携わりたいのか、
もう少し考えてみたいと思う。
もやもやに付き合ってくださりありがとうございました。