【結果分析】米国大学院進学のための社会人になってからのTOEFL ver.3
7月6日に今年3度目のTOEFLを受けてきました。
感触はあまりよくありません。Reading-Listening-Speaking型のアカデミックレクチャー問題でReadingの意味を読み取れず真逆のことを言ってしまったので、最悪20点を切ってしまうかもしれません。8月3日に再度TOEFLを受験することにしたので、この一か月で対策をし切って必ず100点を取りたいと思います。というより今回取り切らないとある奨学金の要件を満たせません。
1.TOEFLスコアの推移
2月には93点だったスコアが6月には96に上がりました。
ただSpeakingはスコアが下がってしまいました。
やはりSpeakingとWritingのスコアが全体的に低く、全体のスコアを押し下げてしまっているので、SpeakingとWritingの集中的な対策が必要です。
2. 7月6日のテストの振り返り
Reading
前回同様できたような感覚がありました。
Listening
2セット目のacademic lectureの部分で集中力が切れてしまいあまりうまく答えられた気がしません。
Speaking
上にも書いた通りRLS型のアカデミックトピックで真逆のことを言ってしまいました。Readingを限られた時間で意味を理解する必要があります。
Writing
IndependentはOK。Integratedの部分は用意した構文通りに書けましたが、もしかするとまた前回同様passageとlectureの関係性が不明確と言われてしまうかもなと思いました。基本的にlectureはpassageを否定する形で話が進むのですが、よくthe lecture refutes "this"のように書いていたことを思い出しました。thisの内容が明示的であればいいんですが、あいまいだとlectureがpassageの何を否定しているのかがわかりません。thisの内容を明らかにして、何を否定しているのか、あるいは何に疑問を呈しているのかはっきりさせる必要があるなと感じました。
その他
会場に早く着きすぎないー今回ナイロビで道路封鎖があることから一番乗りで会場入りしてしまいました。Speakingは私が最初なので、他の邪魔がなくListeningができたというメリットはあったのですが、他の人が話している内容から話を類推するチャンスがなかったのはマイナスでした。
緊張したーあまり準備の時間を取れなかったことがあったのか、前回緊張しなかったのに、今回緊張してしまいました。忙しくてもある程度対策の時間を取って自信を持ってテストを受ける必要があると感じました。
3. 8月3日のTOEFLに向けての対策
まず2019年8月からTOEFLの問題構成が少し変わるようです。
・1つのReadingの問題数が10問に減る
・Listeningの講義形式の問題が1つ減る(ダミーがある場合は2つ)
・SpeakingのQ1(自分に関することを話す)とQ5(L-S型のキャンパス内の会話に対して自分の意見を述べるもの)がなくなる
集中する時間が短くなるのは歓迎ですが、その分一問にかかるスコアの比重が大きくなります。
1.8月3日までのスケジュールを立てる
7月は結構忙しくて奨学金、学術論文の提出、仕事では研修の準備があります。ただ今回は本気で準備しないと100点越えが難しいので、いつまでにどの対策を終わらせないといけないのか具体的なスケジュールを立てたいと思います。
2.実際のテストの長さで集中して対策する
実際のテスト時間の長さで対策をする日を設けます。
その時間が取れない場合でも各セクションは最初から最後まで全部やり切る(例:WritingをIndependentのみやるのは×)。
3. TOEFL Practice Online(TPO)を一度解く
ある程度の対策をした後なるべく早い段階でTPOを受けます。その結果に沿って再度対策をします。
4.Notefulを見てSpeakingとWritingの対策をする
Atsueigoで紹介されていたNotefulというYoutubeの動画を見てSpeakingとWritingの対策をしたいと思います。
ケニア国内で犯罪経歴書を取得する方法
ケニア国内で外国人が犯罪経歴書の(police clearance certificate)を取得する方法をメモ書きしておく(2019年6月末現在)。
初めて日本人がケニアで労働許可証を取得するには日本の警察署から英文の犯罪経歴書の提出が求められる。
労働許可証の更新をする場合などは、ケニアの警察署から犯罪経歴書を取得しないといけない。
関係各所に情報収集したけれど、間違っていたり古い情報だったりしたので、自分の足で稼いだ情報を書いておこうと思う。
犯罪経歴書を発行する機関
Directorate of criminal investigations(DCI)である。ここのHPに手順が書かれてある。
http://www.cid.go.ke/index.php/services/police-clearance-certificate.html
また困ったことがあったら電話をかけると、結構意外にも丁寧に対応してくれる(人によるかもしれないが)。必要書類など変わることもあるので、遠方からナイロビにこないといけない人は電話して現在の状況を説明し、必要書類を確認すると無難。
外国人はeCITIZENを使わない
まず、外国人の場合eCitizenからの申請はできない。ケニア人はオンラインポータルで犯罪経歴書の取得アプリケーションを作成する。しかし外国人はeCITIZENを使わない。DCIのナイロビ本部(Kiambu road、カルーアフォレストの横)に行って直接手続きをしないといけない。
DCIに持っていくもの
パスポートのコピー
労働許可証のコピー
パスポートの査証のコピー
HPにも書いてあるが、この3つをパスポートと労働許可証の原本とともに持っていく。
DCIでの手続き
ケニア人と異なるので注意。
1. 入口から入って突き当たりにある建物のRoom 31に行って持ってきた書類にDirectorのサインをもらう。
2. 入口から入って右に進んだ建物に向かう(以後申請の手続きはこの建物内で行われる)
3. Cashierで1000KESを支払う。支払いのレシートを受け取る
4. カウンター2でレシートのコピーを取る(コピー代5KES)
*関係書類の印刷はカウンター2で当日することもできるが多少並ぶので準備していった方が無難
5. カウンター4で指紋採取用のフォームをもらう
6. 指紋採取担当の職員に書類を見せ、指紋採取の列に並ぶ
7. 指紋採取
8. 2週間後に受け取り
ケニアの行政機関の手続きは時間がかかったり汚職を要求されがちだが、手続きは意外にすんなり終わった。上の1-7までの手続きを1時間くらいで済ませることができた。
指紋採取の際に黒いインクをめっためたに塗られるので、ウェットティッシュがあったら良い。外に水道と石鹸があるからなくてもいいけどね。
なぜ自分はケニアの教育NGOの現場にたどり着いたのか?
いやー現場の仕事が辛い。
なぜ自分は途上国のド田舎まで来て家族や大切な人と離れ離れになりながらも、
この仕事を続けているのだろう?
高校、大学の多くの同級生は日本でいい暮らしをしている。
結婚ラッシュも起きている。
どうして私は修士号まで取って低賃金かつ途上国の田舎という過酷な環境を選んだのだろうか?過酷なだけでなく辛いこともいっぱいあり、体調を崩すことも多くなった。
一方でネット上では、そんな国際協力の現実に向かって前を向いて頑張っている人も見かける。
自分はなぜそう思えないのか、自分には向いていないのか、いっそやめてしまおうかなと思うこともある。
ただそれを踏みとどまらせる何かが心の中にあるような気もする。
日本に一時帰国している今、自分がケニアのNGOの現場にたどりついた原点や初心を振り返ることで、自分は今どんな選択をしないといけないのか、考えるきっかけにしたい。
1.きっかけ
きっかけは間違いなく小学校のときだと思う。
当時総合的な学習の時間で、戦争や平和について探究する時間があった。
4年生のときに見た「さとうきび畑の唄」という沖縄戦のドラマに衝撃を受け1週間くらい頭からそのことが離れなかったのを強烈に覚えている。
そのときから戦争はいけない、平和は大事と強く思っていた。
6年生のときにはイラク戦争が勃発、クラスで議論をした。
さらに卒業前のイベントでは学校を代表して総合的学習のテーマ「生きる」について保護者や地域の人々を前に発表したのを覚えている。
原稿はほとんど先生に作ってもらったけれど、そのときも戦争は繰り返しませんと誓い、お年寄りの方が涙を流して頷いてくださっているのも覚えている。
卒業文集でも、第二次世界大戦中の日本の蛮行について触れ、「日本の独自の考えで強く平和を求める日本にしたい」「小さなことを積み重ねていき、人と仲良く、日本と世界が仲良くなっていけばいいと思う」と書いている。
今まで自分は普通の子どもだったと思ってきたけど、他の友人の文集の内容と比較すると、当時からちょっと変わったやつだったんだと思う。
2.平和への思いを強くした中学時代
中学では、社会科の先生に影響されて憲法9条について調べて、大学の法学部の先生にも会いに行った。
調べるといってもどちらかというと冷静に分析するというよりは、戦争はダメ、9条は大事と宗教的に信じて、それをより強く思い続けていた。
間違いなく偏向的だったけど、平和への熱意は当時から強く持っていた。
日本は戦争がなく豊かで幸せ、世界には貧しい国がいっぱいあるという意識が強く、世界に目が向いた。国連は世界の平和のために働く”スバラシイ”機関だと信じ込んでいて、中学のときには国連で働きたいと語っていた。
そんな熱烈な思いは持っていたけれども、あくまで学校の中での勉強にとどまり、サッカーに熱中していたこともあり、具体的に本を読むなどのアクションを取ることはなかった。
3.国際的なことに興味は持っていた高校時代
中学に引き続き、高校もサッカー漬け。国連への思いは持ってはいたけど、浅いままでとどまっていた。高校は地方では有名なお堅い公立の進学校。多くの先生は国公立進学を進める中、1年生の国語の担任の先生だけ、「国連に行きたいんです」と伝えたところICUという大学があると教えてくれた。オープンキャンパスでICUの国際的で自由な雰囲気に憧れを抱いていた。授業では社会科の授業が楽しくて、グローバルに物事が繋がっていく世界史の授業にワクワクした。
4.直感的に決まった教育専攻、現場での仕事への思い、あこがれた研究者への道
国公立の受験に見事失敗し、無事(?)ICUへの入学を果たした。国連職員=国際法専攻という思い込みがあり、法学を専攻したけれど、合わずに挫折。何を勉強して国連職員になるのだろうという思いを抱きつつ1年生の終わりの春休みに教育ボランティアでネパールを訪問。そのときにこどもの笑顔がキラキラしていたことや日本と異なり恵まれていない教育現場の状況を見たことがきっかけにはなったけれど、直感的に教育、さらには途上国の現場で教育に貢献すると決めた。いまだになぜ教育なのですかと聞かれてもあまり分からない。「平和」のために働きたいという思いが、教育専攻の選択に直接的には繋がっておらず飛躍がある。その後は教育について勉強を進めていったが、冷静な分析だけでなく、熱意を持って語る途上国の教育開発を研究する先生にあこがれ、将来的には現場の仕事ではなく、途上国の教育問題を研究する研究者になりたいと思うようになった。
そのためには修士が必要で、途上国の教育現場で何が起きているかを知りたいという思いを持ったことから、学部卒業後修士課程に進学し、その後すぐミャンマーの現場にわたり、今のケニアに至る。
こうやって見てくると、今は教育開発の研究者になるためには順調なキャリアを積んでいるように見える。
5.これまでの自分の人格に影響を与えてきた意識・潜在意識
5.1.海外への好奇心
まずは海外へのあこがれがあった。自分が知らない世界のことを知り、そこに足を踏み入れることにわくわくした。初めて訪問したニュージーランドでは英語は全く喋れなかったけど、毎日が刺激的だった。
5.2.自分は恵まれているという意識、贖罪意識
子どもながらに自分は恵まれているという意識があったのだと思う。テレビで途上国のご飯を食べられない子どもたちのドキュメンタリーを見たときには、母親から「世界にはご飯を満足にしか食べられない人もいっぱいいるんやで、残さず食べや」みたいなこともよく言われていた。自分は恵まれているが世界には恵まれない人がいっぱいいる、自分はその人たちのために働く責任がある、助けなければいけないという意識が生まれたのだと思う。また自分は恵まれていることに罪悪感のようなものも感じていた。自分は恵まれているのに、世界には恵まれない人がいっぱいる、と。自分は豊かだったゆえに私は人のために働かないといけないという強い思いを抱くようになった。今思うと、当時はかなりの救世主妄想(saver complex、メサイアコンプレックス)に苛まれていたのだと思う。
5.3.いい子症候群
小学校のときに平和学習をしたけれど、他の人には響かず私には強く響いた。なぜ私には強く響いたのだろう。真面目だったし、曲がったことが嫌いだったことに加えて、「いい子」だったことが大きい。先生が子どもに持ってほしい考えを自分の中に内面化していった。 小さい頃から空気を読むのは得意(反対に自分の意志がなく、周りを見てしまう子)だった。
5.4.他者へ貢献したいという意識
他人へ何かをしてあげることが好きな家族に育ったため、自分も他人が喜ぶことをしたいと思うようになったんだと思う。家族は友達が家に来たり来客があると丁寧にもてなしていた。他人が喜ぶことをしてあげたときに、自分は幸せを感じていた。
5.5.自尊心の低さ
海外への好奇心を除くと上のそれぞれの意識は「自尊心の低さ」という一言に集約されると思う。自分を認めることができず、自分が育った環境ですら肯定できなかった。豊かであったということにすら罪悪感を持っていた。自分を肯定するために、他人を助けることで充足した感情を得る、自分で自分を認めることはできないから、先生や身近な人にいい子だねと認められることで充足した感情を得てきた(この屈折したいい子症候群ゆえにここまで勉強することができたのだけど)。
自分の存在を自分自身が肯定できなかったこと、自分を抑えることに慣れてきたこと、そのことがこれまでの自分を形作っていると思う。
6.現在の状況
人のために働くことでやりがいを感じられるNGOの仕事なのに、自分が苦しむ経験を通じて、自分は何をしているときが幸せなのかと問い始めている。
この問いができたことは自分の人生にはプラスだと思う。
NGOの仕事で他人を助けることに慣れ続けていけば、自尊心は低いままでも、ある程度の自己充足感は得られ救世主思想を強く持ったまま生きていたことであろう。
まだまだ周りを見るくせは治っていない。
自分の本当にやりたいことは何なのか考えることをしてこなかった。これまでの選択は考えるというよりは熱狂的にそれが良いと信じたためであって、自分が何をしたいのかは正直よくわからない。
ただ一つ分かったことは自分が満たされないと他人のために働けないということだ。
その一つは自分の大切な人と共に幸せに生きていくことだと思う。
また自分はマザーテレサにはなれないということも分かった。自分の生活水準を下げ、大事な人たちと離れてまでも他人のために働くことはできない。自分への皮肉を込めていうと、自分は所詮援助家族やノブリスオブリージュ的なんだと思う。
でも援助貴族でもいいではないか。
自分が経済的にも精神的にも満たしつつも、人のために働けたらそれはそれでいいと思うようになった。
今後国際協力の仕事を続けるにしても、大切な人と離れ離れになってまでも、自分の生活を捨ててまでも、他人のために働くことは難しいと思った。
今の考える自分の進むべき進路の条件は下記である。
・自分が満たされている環境を維持しながら、人様のために貢献できる仕事を見つける
・社会に貢献できるスキル(例:研究手法)を身に着け成長する
・食べていくことができる仕事や待遇を得る
・楽しく生きたい
自分がしんどくならない範囲で、社会に貢献できることをしていきたいと思う。