「やぁガイジン・中国人!」と話しかけられた。あなたならどうやって返しますか?
ジャンボ!
今回も海外生活で揺さぶられるアイデンティティについて書こうと思う。
前回の記事でもアイデンティティについて書いたけれど、今回は第2弾!
「やぁガイジン・中国人!」と話しかけられた。あなたならどうやって返しますか?
自分は何者なんだという問いは多くの人が抱く根源的な問いである。
しかし海外にいると何度となくこの問いにぶつかる気がする。
そして特に自分はその問いにぶつかる。
国際的な都市にいると多様性なんて当たり前かもしれないが、
私がいるケニアの田舎町ではガイジンなんて珍しい。
マサイ族が多く住む地域であるから、ケニア国内の他の民族でも珍しがられることもある。
そんな中に肌の色が違うガイジンが現れると物珍しそうに見られるのはいつものこと。
街で良く話しかけられる会話はこれだ!
「ヘイ!ムズング!」
(スワヒリ語でムズングはガイジン)
「チナ!チュンチョンチャン!」
(チナは中国人!ケニア人には中国語はチュンチョンチャンと聞こえるらしい)
前回のブログで現地の文化に近づいてはいくものの、染まりきることはできないという話をしたけど、
上のように話しかけられるとやっぱり疎外感を感じてしまう。
自分自身ではなく、東洋人というイメージで自分が見られているなと。
また中国人じゃないよなーとも思う!
一方で多くの日本の人が日本でガイジンを見たときにも同じ反応をしてしまうんじゃないか。
ガイジンさん、白人、黒人、、、
日本で黒人の人と会ったときにその人の出身がケニアなのか、エチオピアなのか、ナイジェリアなのかはたまたアメリカなのかハイチのなか気にする人はそう多くはないのではないか。
今まではムズング!とかチナ!と言われても黙るかハローと返すだけだった。
日本でもガイジンさんがどこの出身かなんて気にしないし、
まぁ気にしなくていいかと自分を納得させようとしていた。
一方で心の奥底では違うのになぁとなんとなくもやもやが残ったままでもいた。
色々と考えた末に
「ノーノ―、アイアムジャパニーズ!」
と返すようにした。
なぜか?
別に自分自身が何者かを規定するのに、日本人である必要はない。
日本で生まれ、日本で大学卒業まで過ごし、日本の国籍を持っているからといって、
日本人であることを強くする必要は必ずしもない。
以前読んだベネディクトアンダーソンの【想像の共同体: ナショナリズムの起源と流行】で
「国は人々にイメージとして想像されたものである」
という内容を読んで衝撃を受けた。
当たり前にある国はそれ自体で絶対のものではなくて、みんなが想像することによって存在できる。
共通の国であるとみんながイメージするために共通の言語や共通の歴史観が必要になるのだ。
ここまで聞くと
- 日本人であるという理解は誰かに作られたものであり幻想にすぎないんじゃないか?
- 日本人であるということを意識することってすごくナショナリスティックじゃね?
- 日本人というより自分自身でありたい
なんて思ってくる。
とは言うものの、
想像された日本人像から逃れられないのも現実だ。
自己紹介でどうしても
I am from JapanとかI am Japaneseと言ってしまう。
また想像された日本であったとしても、その日本から自分のパーソナリティに影響を受けているのも確かである。
日本という概念は想像により作られたものかもしれないし、自分は何者?という答えに100%日本人であるともいえない。けれど、日本人であるということも自分自身の一部であることも否定できない。(どれほどの大きさの一部であるかはわからないけど)
ならば思い切って日本人であると言ってしまった方が楽なのではないか。
そこにはナショナリスティックな感情や中国や韓国と差別化したいとかそういった感情はない。
ただ自分の一部が日本人であることには違いないということを認めるということ。
だからこれからは
「ムズング!」
「ヘイチナ!」
と言われたら
「アイアムジャパニーズ!」
と答えようと思う!
自分の場合は、日本で大学卒業まで育ってきてその後いきなり海外に出て
自分自身って何者?なんてことを考え出したけれど、
ずっと海外生活だけど、パスポートは日本みたいな人はどういうふうに考えているのかな。
色んなバックグラウンドの人の色んな考えに触れてみたい。