kenyamatecchanのブログ

なぜ自分はケニアの教育NGOの現場にたどり着いたのか?

いやー現場の仕事が辛い。

なぜ自分は途上国のド田舎まで来て家族や大切な人と離れ離れになりながらも、

この仕事を続けているのだろう?

高校、大学の多くの同級生は日本でいい暮らしをしている。

結婚ラッシュも起きている。

どうして私は修士号まで取って低賃金かつ途上国の田舎という過酷な環境を選んだのだろうか?過酷なだけでなく辛いこともいっぱいあり、体調を崩すことも多くなった。

 

一方でネット上では、そんな国際協力の現実に向かって前を向いて頑張っている人も見かける。

自分はなぜそう思えないのか、自分には向いていないのか、いっそやめてしまおうかなと思うこともある。

ただそれを踏みとどまらせる何かが心の中にあるような気もする。

 

日本に一時帰国している今、自分がケニアNGOの現場にたどりついた原点や初心を振り返ることで、自分は今どんな選択をしないといけないのか、考えるきっかけにしたい。

 

1.きっかけ

きっかけは間違いなく小学校のときだと思う。

当時総合的な学習の時間で、戦争や平和について探究する時間があった。

4年生のときに見た「さとうきび畑の唄」という沖縄戦のドラマに衝撃を受け1週間くらい頭からそのことが離れなかったのを強烈に覚えている。

そのときから戦争はいけない、平和は大事と強く思っていた。

6年生のときにはイラク戦争が勃発、クラスで議論をした。

さらに卒業前のイベントでは学校を代表して総合的学習のテーマ「生きる」について保護者や地域の人々を前に発表したのを覚えている。

原稿はほとんど先生に作ってもらったけれど、そのときも戦争は繰り返しませんと誓い、お年寄りの方が涙を流して頷いてくださっているのも覚えている。

卒業文集でも、第二次世界大戦中の日本の蛮行について触れ、「日本の独自の考えで強く平和を求める日本にしたい」「小さなことを積み重ねていき、人と仲良く、日本と世界が仲良くなっていけばいいと思う」と書いている。

今まで自分は普通の子どもだったと思ってきたけど、他の友人の文集の内容と比較すると、当時からちょっと変わったやつだったんだと思う。

 

2.平和への思いを強くした中学時代

中学では、社会科の先生に影響されて憲法9条について調べて、大学の法学部の先生にも会いに行った。

調べるといってもどちらかというと冷静に分析するというよりは、戦争はダメ、9条は大事と宗教的に信じて、それをより強く思い続けていた。

間違いなく偏向的だったけど、平和への熱意は当時から強く持っていた。

日本は戦争がなく豊かで幸せ、世界には貧しい国がいっぱいあるという意識が強く、世界に目が向いた。国連は世界の平和のために働く”スバラシイ”機関だと信じ込んでいて、中学のときには国連で働きたいと語っていた。

そんな熱烈な思いは持っていたけれども、あくまで学校の中での勉強にとどまり、サッカーに熱中していたこともあり、具体的に本を読むなどのアクションを取ることはなかった。

 

3.国際的なことに興味は持っていた高校時代

中学に引き続き、高校もサッカー漬け。国連への思いは持ってはいたけど、浅いままでとどまっていた。高校は地方では有名なお堅い公立の進学校。多くの先生は国公立進学を進める中、1年生の国語の担任の先生だけ、「国連に行きたいんです」と伝えたところICUという大学があると教えてくれた。オープンキャンパスICUの国際的で自由な雰囲気に憧れを抱いていた。授業では社会科の授業が楽しくて、グローバルに物事が繋がっていく世界史の授業にワクワクした。

 

4.直感的に決まった教育専攻、現場での仕事への思い、あこがれた研究者への道

国公立の受験に見事失敗し、無事(?)ICUへの入学を果たした。国連職員=国際法専攻という思い込みがあり、法学を専攻したけれど、合わずに挫折。何を勉強して国連職員になるのだろうという思いを抱きつつ1年生の終わりの春休みに教育ボランティアでネパールを訪問。そのときにこどもの笑顔がキラキラしていたことや日本と異なり恵まれていない教育現場の状況を見たことがきっかけにはなったけれど、直感的に教育、さらには途上国の現場で教育に貢献すると決めた。いまだになぜ教育なのですかと聞かれてもあまり分からない。「平和」のために働きたいという思いが、教育専攻の選択に直接的には繋がっておらず飛躍がある。その後は教育について勉強を進めていったが、冷静な分析だけでなく、熱意を持って語る途上国の教育開発を研究する先生にあこがれ、将来的には現場の仕事ではなく、途上国の教育問題を研究する研究者になりたいと思うようになった。

そのためには修士が必要で、途上国の教育現場で何が起きているかを知りたいという思いを持ったことから、学部卒業後修士課程に進学し、その後すぐミャンマーの現場にわたり、今のケニアに至る。

こうやって見てくると、今は教育開発の研究者になるためには順調なキャリアを積んでいるように見える。

 

5.これまでの自分の人格に影響を与えてきた意識・潜在意識

5.1.海外への好奇心

まずは海外へのあこがれがあった。自分が知らない世界のことを知り、そこに足を踏み入れることにわくわくした。初めて訪問したニュージーランドでは英語は全く喋れなかったけど、毎日が刺激的だった。

 

5.2.自分は恵まれているという意識、贖罪意識

子どもながらに自分は恵まれているという意識があったのだと思う。テレビで途上国のご飯を食べられない子どもたちのドキュメンタリーを見たときには、母親から「世界にはご飯を満足にしか食べられない人もいっぱいいるんやで、残さず食べや」みたいなこともよく言われていた。自分は恵まれているが世界には恵まれない人がいっぱいいる、自分はその人たちのために働く責任がある、助けなければいけないという意識が生まれたのだと思う。また自分は恵まれていることに罪悪感のようなものも感じていた。自分は恵まれているのに、世界には恵まれない人がいっぱいる、と。自分は豊かだったゆえに私は人のために働かないといけないという強い思いを抱くようになった。今思うと、当時はかなりの救世主妄想(saver complex、メサイアコンプレックス)に苛まれていたのだと思う。

 

5.3.いい子症候群

小学校のときに平和学習をしたけれど、他の人には響かず私には強く響いた。なぜ私には強く響いたのだろう。真面目だったし、曲がったことが嫌いだったことに加えて、「いい子」だったことが大きい。先生が子どもに持ってほしい考えを自分の中に内面化していった。 小さい頃から空気を読むのは得意(反対に自分の意志がなく、周りを見てしまう子)だった。

kenyamatecchan.hatenablog.com

 

5.4.他者へ貢献したいという意識

他人へ何かをしてあげることが好きな家族に育ったため、自分も他人が喜ぶことをしたいと思うようになったんだと思う。家族は友達が家に来たり来客があると丁寧にもてなしていた。他人が喜ぶことをしてあげたときに、自分は幸せを感じていた。

 

5.5.自尊心の低さ

海外への好奇心を除くと上のそれぞれの意識は「自尊心の低さ」という一言に集約されると思う。自分を認めることができず、自分が育った環境ですら肯定できなかった。豊かであったということにすら罪悪感を持っていた。自分を肯定するために、他人を助けることで充足した感情を得る、自分で自分を認めることはできないから、先生や身近な人にいい子だねと認められることで充足した感情を得てきた(この屈折したいい子症候群ゆえにここまで勉強することができたのだけど)。

自分の存在を自分自身が肯定できなかったこと、自分を抑えることに慣れてきたこと、そのことがこれまでの自分を形作っていると思う。

 

6.現在の状況

人のために働くことでやりがいを感じられるNGOの仕事なのに、自分が苦しむ経験を通じて、自分は何をしているときが幸せなのかと問い始めている。

この問いができたことは自分の人生にはプラスだと思う。

NGOの仕事で他人を助けることに慣れ続けていけば、自尊心は低いままでも、ある程度の自己充足感は得られ救世主思想を強く持ったまま生きていたことであろう。

 

まだまだ周りを見るくせは治っていない。

自分の本当にやりたいことは何なのか考えることをしてこなかった。これまでの選択は考えるというよりは熱狂的にそれが良いと信じたためであって、自分が何をしたいのかは正直よくわからない。

ただ一つ分かったことは自分が満たされないと他人のために働けないということだ。

その一つは自分の大切な人と共に幸せに生きていくことだと思う。

また自分はマザーテレサにはなれないということも分かった。自分の生活水準を下げ、大事な人たちと離れてまでも他人のために働くことはできない。自分への皮肉を込めていうと、自分は所詮援助家族やノブリスオブリージュ的なんだと思う。

でも援助貴族でもいいではないか。

自分が経済的にも精神的にも満たしつつも、人のために働けたらそれはそれでいいと思うようになった。

今後国際協力の仕事を続けるにしても、大切な人と離れ離れになってまでも、自分の生活を捨ててまでも、他人のために働くことは難しいと思った。

 

今の考える自分の進むべき進路の条件は下記である。

・自分が満たされている環境を維持しながら、人様のために貢献できる仕事を見つける

・社会に貢献できるスキル(例:研究手法)を身に着け成長する

・食べていくことができる仕事や待遇を得る

・楽しく生きたい

 

自分がしんどくならない範囲で、社会に貢献できることをしていきたいと思う。